SSブログ
邪馬台国を探す
前の10件 | -

女郎墓群の霊に惹かれて [邪馬台国]

渓流釣りに没頭し九州脊梁を走り回っていた頃、高千穂のペンション経営者
と仲良く成りました。

ある日ペンションの経営者Kさんが、日隠川の源流の女郎墓群 の「霊が写っている一枚の写真」を見せてくれました。 女郎達の鎮魂祭の時の記念写真で、祭壇の横に「そこには居なかった人」 の後ろ姿が、はっきりと写っていました。 案内を請いましたが、「あそこへは2度と行きたくない」とあっさり断られました。 更に、その墓の下流には大きな渕が有って、大きなヤマメがウジャウジャ泳いで居るよ・・・・・と「聞き捨てならぬ情報」も提供されたのです。 この一帯は江戸時代から昭和44年まで、スズを掘った見立鉱山が隆盛していました。標高1,000メートルを越す場所ですが、多くの坑口が有り周辺には多くの山棲み人達が住んでいたと思われます。 当然、代官屋敷跡や遊女屋敷跡等が点在し、墓石群や無縁墓群・鉱山特有の炉跡などが有るそうです。 暫く日暮谷に「行くか? 止めるか?」迷いましたが「怖いもの見たさと尺ヤマメ欲しさ」に行動開始! 日之影川を外れ、日隠川沿いに、荒れた山道を約1時間、ようやく視界がひらけ山の尾根近くに辿り着きました。 「女郎墓群の看板」を見つけましたが、看板は空を向いており、1度は通り過ぎてしまいました。 行き止まりまで車で走りましたが、間違いに気付き、看板まで引き返しました。 メンバーの一人が、看板下のガレバに踏み跡を発見!   総勢四名恐る恐る、300メートル位下ると、原生林に包まれた枯れ沢に辿り着きました。 心の中では「怖いもの見たさの好奇心」が渦巻いて居ましたが、 祟られたら怖いので「ここで心を入れ替え」ました。 お金の為にこんな「山奥まで連れて来られ」さぞかし苦しい思いをされた事でしょう。 「皆様安らかに、お眠り下さい。」・・・・と心の中で祈って居ました。 枯れ沢を遡行すると、薄暗い原生林に包まれた枯れ沢の左右の出っ張りに 「沢山の苔むした墓石」が並んで居ました。 名前や没月日の刻んで有る墓石・2~3才の子供の墓石など、言葉に成らない光景でした。 女郎墓.jpg これを機に大きなヤマメが釣れる五ヶ瀬川通いが始まり、 「宮崎県西臼杵郡高千穂町」の様々な史跡を見て回るうちに、邪馬台国探しが始まったのです。
タグ:女郎墓群

邪馬台国を探す「神話」 [神話]

ドイツのシュリーマンが、ギリシア神話ホメロスの叙事詩 『イリアス』『オデュツセア』の記述を信じて、トロヤの遺跡発掘に成功しましたが、 史的な事実があって伝承でホメロスまで500年、更にホメロスから今日まで 流布本として伝えられているテキストの完成まで500年の歳月が流れています。

古事記は、世紀673年に即位した天武天皇が、朝臣「太安万侶」に 命じて国史の編纂に着手。 語り部「稗田阿礼」の詠む本辞を選録、世紀217年、元明女帝に献上されたものです。

神話は歴史的な事実を中核とするのではなく、大和朝廷の有力者
により、ある意図によって作られた物語だと思います。
即ち「天皇」が日本の統一君主と成ったあとに、6世紀以降に、
『皇室が日本を日本を統治するいわれを正当化しようとする意図にしたがって作られた物語』です。

人間が活字など持たない場合でも、 なお且つ時間をこえて知識を伝達しうる能力のあることは、ギリシア神話の場合をみれば一目瞭然です。

まして古事記の場合は、その半分にも満たない時空間の事です。 更に伝承が完成するまでの時間を差っ引けば、当時の人たちからすれば、 昨日の出来事が、次の日の夕刊に掲載される位の、時の流れでしか 無いのです。

*  殷墟やトロヤの遺跡の発掘などを始め、世界各国の「神話伝承と史的事実」
  との結びつきを示す数多くの事例を眺める時、記紀の伝承の中にも、
  ある程度の史実が含まれていると考える方が妥当だと思うのです。

タグ:邪馬台国

邪馬台国を探す[倭人伝と古事記の照合]  [倭人伝と古事記の照合]

即ち弥生時代中後期の日本のどこかに存在した、邪馬台国そして女王「卑弥呼」 を探し出す手懸りは、同年代の日本を外部の視点で記述された{魏志倭人伝}と、 同年代の史実を取り混ぜ、ある目的の為にへんさんされた「古事記」 との間に必ず隠されていると思います。 何かが符号するようなところを、探し出せばいいのではないでしょうか?

邪馬台国 時代背景 写真.JPG
タグ:時代背景

邪馬台国をを探す「 時代背景 」 [時代背景]

邪馬台国を探す資料には、中国が「魏・呉・蜀」の三国に分かれて居た時代(三国時代)
に北部中国を制圧していた「魏」の国の正史『東夷伝倭人条』の2,000字余りの漢文と、
日本神話とされている『古事記』を照らし合わせ・・・・符号する場所や人物を特定していくしか有りません。

その前に豊永武盛の著作『あいうえおの考古学』を呼んでみて下さい。
日本の言葉は全て「人間の身体から派生して行った」と言う理論書です。

例えば

「甘い」の語源は「天(あま)」から「雨(あめ)」が降って来て、
その雨を「浴む(あむ)」と体がサッパリして気持ちが好くなります。
「甘い」は・・・気持ちが好くなる事を意味していると言うのです。

そう考えて「身体」の部位を連想していくと、「目・・・芽」、「鼻・・・花」
「口・・・(物の出入り)口」、「歯・・・刃や端・波」など全ての部位に・・・
隠された共通の意味が感じ取れます。

狗耶韓国(プサン周辺)から「唾」を吐いたような場所が「対馬國(対馬)」、
息を吹きかけた状態の場所「一大國(壱岐)」さらに、海路の末路が「末盧國(松浦半島)」
と命名されたように感じます。

倭の国の命令系統「一大率」が置かれたとされる「伊都國」は、(意図や糸)の様な意味が有りそうで、
各国を「束ねていた」「糸で操る」ような場所で有った事が読み取れます。

因みに倭の女王「卑弥呼」を一字ずつ、分解してみると、

卑(ひ)・・・一・日・陽・火・比・匙(さじ)・・・暗示される意味は派生する根源・単位
弥(み)・・・身・美・御・実・・・暗示される意味は(巫女・御子・皇女)等の敬称
呼(こ)・・・小・子・固・己・・・神に仕える未婚の女性

つまり「卑弥呼」とは(一・陽)(皇女・巫女)・・・・「最初の女王」のように読み取れるのです。
タグ:邪馬台国

邪馬台国を探す「この時代の距離」  [この時代の距離]

前回も書きましたが、倭人伝では大陸から倭の國を見下したような
立場が見て取れるようです。

まずは大陸から唾を吐いた位置に有るのが対馬國(長崎県対馬市)、
息を吹きかけた場所が一大國(長崎県壱岐市)、海路の最後が末盧國(佐賀県松浦郡)

里程標2.jpg



伊都國(福岡県糸島市)・・・・世王有るも皆女王國に統属す・・・郡の使の往来し
て常に駐る所なり。・・・・女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。
伊都島は女王国の情報発信基地である「一大率」を置き、その国の名前は「意図する」
「糸で操る」ような意味が隠されて居る様な気がしませんか。

ブログ用.JPG
糸島平野 可也山の手前が三雲遺跡です。

mikumoshouji07[1].jpg

mikumoshouji01[1].jpg

DSC00536.JPG
糸都國方面から双國(福岡市)を望む

おまけですが、博多湾は(歯型)、その入り口にある能古の島(喉)、背景の山は「背振り山脈」
とすべて人間の体から派生た、名前や意味が感じ取られるはずです。
詳しくはあいうえおの考古学「あいうえおの考古学
―邪馬台国身体論―. 豊永武盛著」をご一読下さい。・・・結構面白いですよ。   

『本題』
邪馬台国論争で帯方郡から不弥國までの10,700里は余り問題の無い所です。
帯方郡から女王の都する所「邪馬台国」までが12,000余里ですから、不弥國から邪馬台国
までは1,300里と成ります。

呼子から博多(奴國)までが現在の道路状況で(約80キロメートル)・・・これが倭人伝では
(600里)ですから、当時の「一里は現在の135メートル」と成ります。

注・・・私の住んでいる「奴國」は福岡市中央区でここを中心に、行動していますので、
    不弥國から奴國までの約13.5キロメートルを差し引いて、「奴國」から「邪馬台国」
    までの距離は1,400里(現在の距離で187キロメートル)とさせて頂きます。

簡単に言えば博多から求めている邪馬台国は187キロの所に有ると言う事です。
タグ:邪馬台国

邪馬台国を探す「倭人伝の重要な条件」  [倭人伝の重要な条件]

九州地図.jpg 魏志倭人伝における邪馬台国を比定する必須条件と比定地


1.邪馬台国より北に在る国々については、人家の数や道程をあらまし把握できるが
 その他周囲の国々は遠く隔たっていて詳しく記する事が出来ない。

2.邪馬台国より北に在る国々対し、特別に「大率」とも呼ぶべき役人を置き、
 それは伊都国にある。・・・・邪馬台国と伊都国はおおよそ「南北」関係に、
 なければ成らないと言う大事な条件の一つと成ります。

3.女王「卑弥呼」の支配領域の南に狗奴國が在る。・・・・熊本・人吉・鹿児島

4.帯方郡から邪馬台国までの道理で推測すると、会稽・東治(現在の浙江省紹興市付近)
 の東の方に在る事になる。

5.邪馬台国の東には海路1,000里余りの所に、又倭種の国がある。・・・・四国
6.卑弥呼の墓は直径百余歩。奴婢の殉葬者は100人余りである。・・・・ 
 宮崎県高千穂町(河内地区「奥鶴台地」)



私の比定する邪馬台国はこの条件を無理なく全て満たしています! 約2,000年も昔の人々の記した「魏志倭人伝」は、想像をはるかに超えた正確な文献だと思います。 方位計やメジャーを使わずに月と太陽だけを頼りに、よくもここまで正確に記録されたものだと、関心しています。 邪馬台国「畿内説」をはじめ諸々説は、よくも「魏志倭人伝」を折り曲げ、 へし曲げ「邪馬台国改造論」を唱えられるものだと思います。 「日本列島改造論」をブチ上げた田中角栄元総理も、黄泉の国でビックリしているのでは ないでしょうか。 もっと素直に「魏志倭人伝」を読み返してみませんか?
タグ:邪馬台国

邪馬台国を探す「史実と神話の照合」  卑弥呼は天照大神 [史実と神話の照合]

女王「卑弥呼」の統治下の日本国も、神武天皇で始まる日本国も、 正式の「倭(円くまとまっているの意か?)国」も、正式の国号は「倭国」 でした。

奈良時代に成って初めて「倭国は日本」と言う国号に改められました。
中国の史書は卑弥呼以外に「王統」の在ったことを告げておりません。

又、中国が大和朝廷以降の天皇と交渉を持った時も、これらの天皇が
卑弥呼の血を受けた王である事を疑っていないのです。

まり卑弥呼は倭(日本)の女王で在り、日本国の天皇系譜のどこかに位置するべき人なのです。

天照大神」は「卑弥呼」です。

下の図は「魏志倭人伝と古事記」の符号するところを、比較したものですが
「完全一致」と言っても良いのではないかと思っています。

邪馬台国写真2.jpg

神話「岩戸隠れ」には太陽の復活(冬至点の意味を含め)、一度死んだ天照大神が
生まれ変わった事を暗示し、死んだ女神は「卑弥呼」であり、復活した女王は
「宗女・壱与」なのです。

又、(住七八十年、倭国乱 相攻伐歴年の)くだりは、出雲系部族の侵略や
狗南双國・建須佐の男・・・・等との乱世だと考えられます。

余談ですが「岩と隠れ」の「」は「〇と★」などの、境目を意味します。
「戸」は部屋と部屋の間に在りますね。

ここでは「黄泉の国」と「この世」の間に在り、「生」と「死」を暗示した神話に成っているのだと思います。
タグ:天照大神

邪馬台国を探す 距離 [邪馬台国]

邪馬台国を探す 3 で双國(博多)から邪馬台国まで、187kmと書きましたが、
下図をご覧下さい。

邪馬台国地図写真.JPG

私の住んでいる双國(博多)から、私が邪馬台国と考える宮崎県高千穂町まで、
主要道を通ると、図のような方法が有ります。

大分県日田市経由で高千穂町河内(卑弥呼の墓と思われる古墳が有る場所)まで170km。
この古墳や横穴式石棺群がある地域は「奥鶴(津)台地」と呼ばれています。
「津」意味は港や「お別れの場所」・・・つまり「墓所」のいみが有ると思われます。

熊本市経由で河内まで136km、高千穂へ直行すれば154km。
御船経由で高千穂へ直行すれば198km。
松橋経由で高千穂へ直行すれば208kmです。

これは私の推定した、「双國(博多)から邪馬台国まで187km」にかなり近い数字だと思います。

こう反論される方もいらっしゃると思います・・・・・・昔の道と現在の道路は違うのではと。

これは九州道や都市高速を実際に走った距離です。
もちろん新しいトンネルや橋を利用した結果です。

しかし現在の道路は、「同じ方針を持って」作られた計画的道路であり、これを比率で割り出した
距離ですから、問題は無いと思います。

邪馬台国を探す 3 の地図を見て下さい。
伊都國と高千穂は、ほぼ「南北の関係」で魏志倭人伝の条件を無理なく全てを満たしていると思います。

高千穂は元々「知鋪の郷」と呼ばれ、阿蘇から日向一体をそう呼んでいたそうです。
タグ:距離

邪馬台国を探す 神武東遷 [邪馬台国]

魏志倭人伝による倭の女王「卑弥呼」は先に説明したように、 日本天皇系図のどこかに位置しなければならない人のはずです。

神話化されては居るものの、天皇系図は下図実線の流れをたどります。
卑弥呼が当然この流れのどこかに位置すべき人と考える時、邪馬台国
そして卑弥呼は、円内又破線の流れで考えるのが一番自然ではないでしょうか?
邪馬台国.jpg


つまり、出雲や南方(狗双國)系の男王が相攻伐した倭国に、卑弥呼と言う女王が 共立されました。

彼女は戦乱に乱れた世の中を、平和な国へと導きました。
彼女が民衆を救った功績は、恵みの太陽にも称えられ、後々神格化されて
「天照大神」と呼びなわされる様になったのではないでしょうか?

卑弥呼の死後、世の中は再び戦乱に包まれます。
得の無い戦いに嫌気のさした、部族の長達は、再び卑弥呼の血筋をひく、
わずか13歳の宗女壱与を天照大神の再来として共立します。

これが効を奏して、世の中は再び平和を取り戻します。
この一連の出来事が、後々「天岩戸神話」として語り継がれるように成ったのです。

二人の天照大神によって確立された王統を引き継ぐ、「神武天皇」が近畿大和へ
神武東遷し後大和朝廷を興すことに成るのです。
タグ:邪馬台国

邪馬台国を探す「邪馬台国の意の探し方」  [邪馬台国]

前にも書きましたが、先ずは「言葉の派生」は人体の部位から始まったとの
説を唱えられる、
「豊永武盛」著の 「あいうえおの考古学」 邪馬台国身体論
をお読みいただくと非常に解り易く、面白いですよ。


この本を元に、卑弥呼・倭・邪馬台国・そして私の比定する 阿蘇周辺から、高千穂にかけての大まかな意味する所を、 ご紹介してみたいと思います。

邪馬台国.png


参考    魏志倭人伝

       古事記現代語訳
タグ:邪馬台国
前の10件 | -

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。